父親の連合赤軍とは

母親だけではなく父親にとっての連合赤軍事件とは
どのようなものであったのか?
坂東國男の父親は、あさま山荘事件で人質を取って籠城する息子の犯行に悲観して、息子が逮捕される直前に自殺した。
吉野雅邦氏の父親も大企業の重役に就いていたが、息子が連合赤軍事件に関わり世間を騒がせ、社会に与えた重大な責任をとって辞職した。
当時未成年だった2人の少年の父親も教育者であったが、自分の子どもの教育も満足にできない親が、他人様を教育することなどできないと言って、教職を辞した。
2人の少年の兄はリンチで犠牲となって、遺体で発見された。
遺体と対面した父親のがっくりと肩を落とした後姿を、当時の新聞記事で見た時は、
事件の痛ましさを象徴しているようで、やりきれない思いを感じたことを覚えている。
寺岡恒一の父親の一郎氏は、息子が約1ヶ月前に無残にも命を絶たれていることも知らずに、息子があさま山荘に籠城しているものと信じて必死で呼掛けを続けた。
「君たちの評価は今後の君たちの行動にかかっている」と、人質を解放して潔く投降するように説得した。
11月19日は寺岡恒一さんの父親の一郎氏の命日である。
恒一さんのお母様によると、お父様は子煩悩で教育熱心な方で、学校の授業参観や学校行事に出席することが多かったそうだ。
現役引退後は自宅で学習塾を開いて、恒一さんが使っていた部屋で近所の子供たちに勉強を教えていたそうだ。
部屋の壁に掛かっているあの魚拓も、恒一さんが出て行った当時のままの状態で残されて今に至っているのだそうだ。
恒一さんのお父様は、息子が意気揚々と釣り上げた魚を魚拓にした当時の面影をいつも感じていたかったのではないかと思われるし、恒一さんもその場にいるような思いを感じて、偲ばれることもあったのではないかと思う。
1998年のこの日、87歳の生涯を閉じた。
恒一さんは連合赤軍事件で命を奪われ、その弟さんは成田闘争に加わった。
寺岡一郎氏も、「あの時代」を生きた人であった。
寺岡一郎氏がご存命のうちにお会いしたかったと、募る思いがする。