私の願望

"If it were I who was to be always young, and the picture that was grow old!" Oscar Wilde "The Picture of Dorian Gray"
「僕がいつまでも若さが変わらないで、この絵の方が年を取ればいいのに!」オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』

随分前だがスペインに行ったことがあった。その時お世話になったバスのドライバーの運転免許証を見せてもらったことがあった。あの当時はスペインでは免許の更新はなく、最初に取得した時の運転免許証がずっと有効だそうだ。
バスのドライバーは初老の方で、頭はすっかり禿げ上がり、顔にはいくつもの深いしわが刻まれて、年齢を感じさせる人だったが、彼の運転免許証を見て思わず目を疑った。そこに写っていたのは額全体を覆うような豊かな髪と濃い眉毛に目鼻立ちもりりしい美青年の顔だった。とても同じ人とは思えない年齢のギャップを見せられたようだった。この年配のドライバーにもこんな若くてハンサムな時代があったのか、と驚いた。
誰でも年を取るのが運命なのだが、若い時に取得した運転免許証やパスポートに写った自分の写真を見るとき、ドリアン・グレイのようになれたらいいのに、と思うことがある。
オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』の主人公、ドリアン・グレイは、たぐいまれな容姿に恵まれた美青年で、画家のベイジルに自分の等身大の油絵を描かせた。その見事な出来栄えはまるで生きた本人が絵の中にいるような精巧なものだった。完成した自分の等身大の肖像画を前にしてドリアン・グレイは言った。「僕がいつまでも若さが変わらないで、この絵の方が年を取ればいいのに!」と。
その言葉の通りドリアンはいくら年を重ねても肖像画が描かれた当時の若さのままの姿で、肖像画のほうが老いていった。
ドリアンはこれを悪用して何十年もの間、恋愛や遊興にふけるが、悪事を働くたびに彼を描いた肖像画の顔は歪み、あざができたりひびが入ったりして一層醜く年を取っていった。しかしドリアン本人は何十年たっても若い美青年のままで老いることがなかった。ある日、秘密を知る画家ベイジルに悪事を責められ逆上したドリアンは、ついに画家をも刺し殺す。すると肖像画に描かれたドリアンの手は血に染まり、ますますおぞましい形相の老人に変わっていった。やがて精神的にも追い詰められたドリアン・グレイは、老いて醜く変貌した自分の等身大の肖像画の胸にナイフを突き立てる…すると肖像画はドリアン・グレイが描かれた当時の美青年の姿に戻り、肖像画の前には見るも無残に老いさらばえた老人の死体が横たわっていた…

ドリアン・グレイは悪行の末に身を滅ぼしたが、願わくばドリアン・グレイの物語のように誰か私に魔法をかけて、私はいつまでも年を取らずに、若かった頃の私を写した写真の方が代わりに年を取ってくれたらいいのに、と無理な願望を抱いている。
若い時は二度無い…それが現実だ。

死生 命あり

岩手県久慈市に住む叔母が亡くなったとの知らせがあった。
あと2日で70歳の誕生日を迎えるところだった。
去年の八月に久慈で会った時には元気そうだったので、突然の訃報が信じられなかった。
亡くなるちょうど前日、母が叔母に電話してみたところ、ちょっと体調を崩して入院したとのことだったが、しばらく入院すればまた元気で退院できると思っていた。
叔母はがんを患っていたが、転移したがんも抗がん剤で治まっていると話していたが実際はどうやらあちこちに転移していたようだった。
叔母は久慈市の体育指導に貢献したそうで、体力がある叔母がこれほど早く亡くなるとは信じがたいことだ。
「死生命(しせい めい)あり」という言葉のとおり、人はいかなる境遇にあっても、初めから決められた運命があるように思った。
去年の夏に叔母とその家族みんなに会っておいて本当に良かったと思った。

謹賀新年

「手のわろき人のはばからず文(ふみ)書き散らすはよし。見苦しとて人に書かするはうるさし」吉田兼好徒然草
「悪筆でもかまわず手紙(特に恋文などの私的な手紙)を筆にまかせて書くのは良い。
しかし字が下手だからと言って誰かに代筆させた手紙は不愉快だ。」


元日に届く年賀状は、やはり嬉しいものだ。それと友人や知人の消息を知ることができるから楽しくもある。
最近はメールでの年賀状も多く、年賀はがきをいただく枚数も少なくなってきたが、いずれにしても年賀状をもらうと嬉しく思う。
逆に連絡がないと、どうしたのだろうかと不安に感じて急いでメールで消息を尋ねたりする。

年賀状もほとんどが印刷で手書きのものは貴重だ。
私はせめて、宛先のお名前だけは手書きで書こうと思っている。

あけましておめでとうございます

最高のピアニストへ  Happy birthday

音楽の演奏を聴くと、アーティストの名前がすぐに分かる奏者がいる。
たとえばバイオリンなら、曲のはじめの音を聴いただけでユーディ・メニューインが弾いている、と、すぐに分かる。
この世のものとは思えない美しい音色を奏でるメニューインのような偉大なバイオリニストはもう二度と現れないだろうと思う。
また、演奏家にとって得意とする作曲家がいるようだ。
ホロヴィッツが弾くリストは他のどんなピアニストにはないホロヴィッツでなければ奏でられない音色を感じる。
特にホロヴィッツが弾いたリストの『ハンガリア狂詩曲第6番』は、その壮麗な演奏に身震いするほど感動した。
同じようなことがショパンに関しても言える。
ショパンの曲はクリスティアン・ツィマーマン氏の演奏が最高だ、と私はそう思っている。
ショパンと同郷のポーランドの出身者であることも少なからず影響していると感じている。
私は一度だけツィマーマン氏のコンサートに行ってサインをいただいたことがあった。
まだ今のような立派な髭を蓄える前の若々しさと純粋さがあふれた新鮮な演奏が印象的だった。
目の前でサインをいただけて非常に感動したことや、その長くて頑丈そうな手指の大きさに圧倒させられた。
フィギュアスケート羽生結弦選手のショートプログラムの曲に、
ショパンの『バラード第1番』が選曲された。
初めてその曲を聴いた時、テンポや間の取り方や強弱の曲奏がツィマーマン氏の演奏のようだと思って、羽生選手には失礼だが、演技よりも流れるピアノ曲に聴き入ってしまった。
ツィマーマン氏の演奏だと確信したのは、曲のコーダ(終結部)と最後の両手のオクターブで半音階ずつ下降する奏法だ。
これはまぎれもなくクリスティアン・ツィマーマン氏の弾き方だ。
それに悔しさや無念さをにじませた演奏は同じポーランド出身者でないと分からない共通の感性を持ったツィマーマン氏だからこそ奏でられるものだ。
羽生結弦選手はよくぞショパンの最高の曲と言われている『バラード第1番』を選曲された。
しかも演奏者はクリスティアン・ツィマーマン氏である。

羽生結弦選手には最高のピアニストがついているからきっと最高の演技ができると思っている。
今日はクリスティアン・ツィマーマン氏の誕生日だ。
ツィマーマン氏の数々の素晴らしいピアノ曲を聴くたびに、まるで本物のショパンが弾いているかのようなポーランド魂を感じさせてくれる演奏が印象深い。
クリスティアン・ツィマーマン氏に誕生日の祝福をしたい。
もし機会があれば、また来日した時に、ますます円熟した深みのある演奏を聴きに行きたい。

東は西

私が今までの人生で一番最初に見た映画はディズニーの『ジャングルブック』だった。
アニメとは思えないリアルで感動的な映画で今でも強く心に残っている。
後年この映画の作者がノーベル賞作家のキプリングだと知った。
キプリングの有名な詩に『東と西のバラード』がある。

"Oh, East is East and West is West, and never the twain shall meet.
Till Earth and Sky stand presently at God's great judgment seat;
But there is neither East nor West, Border; nor Breed, nor Birth,
When two strong men stand face to face, tho' they come from the end of earth!"
(Rudyard Kipling "Ballad of East and West")
「おお、東は東、西は西、そしてこの二つは決して出会うことはない。
 神の偉大な審判の席に、天と地が並んで立つ日まで。
 だが、二人の有力な人間が面と向かって立つときは、
 東も西もない。国境も民族も生まれもない。
 たとえ両者が地球の果てから来ようとも!」
 
日本が関ケ原の合戦をしていた1600年に、イギリスはインドに『東インド会社』を設立し
植民地支配を始めた。
その後イギリス政府は、インド生まれのイギリス人が書いたこの詩の冒頭だけを引き合いにして、東洋人と西洋人は全く相反するものと決めつけて、インドだけでなく中国やアラビア半島にも植民地政策を強化していた。
しかしキプリングが言いたかったのはこの詩の後半部分だ。
この詩が書かれた当時は日英同盟が締結された時代だった。
東の果ての日本と、西の果てのイギリスの両首脳が面と向かって出会った時には

東も西も国境も民族もない。
今日はアメリカの大統領が来日する。日米両首脳はどんな対話をするのだろうか?
こんな時には、東西の融和を高らかに詠んだキプリングのこの詩を思い出す。


キプリングの詩が書かれてから約半世紀の時を超えてリバプール出身のイギリス人が
東と西をテーマにした詩を書いた。

"East is east and west is west.
The twain shall meet.
East is west and west is east.
Let it be complete." (John Lennon "You Are Here")
「東は東、西は西、二つはきっと出会うだろう。
 東は西、西は東、それをやり遂げよう」(ジョン・レノン


地球は丸い。欧米など西側諸国も日本から見れば太平洋の東にある。
逆に日本だって欧米から見れば西に位置することもある。
確かに東は西で、西は東。結局東も西もない。
ビートルズの元メンバーだった故ジョン・レノンの心の広さ、度量の大きさを感じてやまず、地球規模での融和をcomplete(完成)させたら素晴らしいと思う。
今日出会う日米の首脳同士がどんな方向性を見出すのか気がかりだ。

哀悼のピアノ曲

秋は芸術やスポーツ、読書、音楽など様々な活動が盛んになる。
私はやはり芸術の秋、それも音楽に興じることが多い。
特にピアノを演奏したくなる。
1849年の今日、ショパンが亡くなった日だ。
当時まだ死病だった結核で39年の生涯を閉じた。
命日に合わせてショパンを弾きたい。
ショパン国民楽派の先駆者のような作曲家だと思う。
ポーランドの伝統音楽のポロネーズマズルカなどを数多く
作曲して紹介したからだ。
それまで不協和音とされていた7度の和音を取り入れた多くの作品が特徴的で印象深い。
ショパンの祖国ポーランドが分割されて国を失った悲しみや、祖国奪還を企てるも
大国の武力の前ではなすすべがない悔しさや憤りや無念さが、あらゆる曲の中に
表現されている。
優美と感傷とが融合したような繊細な曲を弾くのが
楽しみだが、最近ショパンを弾くのがしんどくなって
きた。
ポロネーズの中でもダイナミックでありながらも繊細で気品あふれる「英雄ポロネーズ」や、勇壮だが美しい音色の「軍隊ポロネーズ」は、今はもう弾けない。
それでもせっかくだからこの日は、初めに「プレリュード(前奏曲)」を、次に「マズルカ」、
ノクターン」を、最後に「幻想即興曲」を弾いて私なりの哀悼の意をささげたい。
もしショパンだったらこれらの曲をどのように弾くのだろうかと、思いを巡らせながら。
そして今はもう弾けなくなった「英雄ポロネーズ」を鑑賞して感動したい。

Stranger than fiction 検診の意味

Truth is always strange; Stranger than fiction. "Don Juan" by George G. Byron(1788〜1824)
「事実は常に奇遇だ。小説よりも奇遇なものだ」バイロン(『ドン・ジュアン』より)


私の友人が、くも膜下出血で倒れたとの知らせがあった。
幸い命は助かり後遺症もなさそうでよかった。
彼女は今までどこも悪いところはなくゴルフやテニスに興じる健康そのものの人なので、今回の知らせを聞いて非常に驚いている。
私などは年に一度の職場の検診では年を経るにつれて成績が悪くなり、不整脈高脂血症の傾向があるとかで総合評価が「C」とか「D」などの要経過観察を指摘され、決して褒められた話ではない。それでも今のところは無事だ。
検診でいつもオール「A」の友人が命にかかわる重病に見舞われ、検診結果が芳しくない私が元気にしているとは、検診などあてにならず、病気は突然襲いかかってくるものだと感じた。


しかし、画像診断では予期せぬ事実が分かることもある。
このブログを立ち上げるきっかけとなった私のかつての恋人と交わした最後の言葉を思い出す出来事があった。
彼は交通事故に遭い、内臓に深刻な損傷を受けた。
特に腎臓破裂の疑いがあった。
私は彼に、私の2つある腎臓の片方を移植して
2人で共有して生きて行こうと言った。
ところが彼は、そんなことをしたら私が死んでしまうからだめだと言って頑なに拒んだ。
私はまた明日話し合おうと思った。
しかし彼には明日はなかった。容体が急変して帰らぬ人となってしまった。
それから15年後、私は超音波診断による検査を受けた。
年齢の節目の人間ドックを気軽に受けた時だった。
その結果に愕然とした。私は先天的に腎臓が片側しかないことが判明した。
私のかつての恋人はまるで超音波診断装置のように体の中を見通す能力があって、
私には腎臓が1つしかないことを知っていたのだろうかと尋ねてみたくなった。
しかし彼はもうこの世にいないからその真意はわからない。
もし人間ドックを受診しなければ生涯この事実を知ることはなかっただろう。
まだ超音波診断が今ほど普及していない時代に彼が私に教えてくれた。
それが今生の別れとなるとは思いもよらないことだった。
何と奇遇で不可思議な事実であろうか。
まさしく「事実は小説よりも奇なり」である。
この言葉の主の詩人バイロンも、小説よりも奇遇な人生を地で行くような人だった。
バイロンは恋愛小説よりも恋多き人生を送ったが、最後はギリシャ独立戦争に身を投じ、戦地で病没した。36歳の劇的な生涯だった。