いきさつ

最近、連合赤軍事件をテーマにした卒業論文を書きたいという大学生が多いそうだ。
そういえば私も19年前のちょうど梅雨空の下で、週末になるとあの事件を追って国会図書館の新聞閲覧室で連合赤軍事件が起きた当時の新聞記事を調べていた。
連合赤軍事件を調べるきっかけは、1993年2月19日の最高裁判決で永田洋子坂口弘に死刑判決が確定した年に、予期せぬ再会を果たした時であった。
朝の開館から昼食をはさんで夕刻まで丸一日中ずっと国会図書館の新聞閲覧室で膨大な新聞記事を読んで過ごした。
昼食は国会図書館の食堂を利用していたが、食堂は大学のカフェテリアのようで、懐かしい雰囲気がした。

連合赤軍によるリンチ殺人事件の報道は非常に耐えがたく、恐ろしいのとかわいそうなのと痛ましくやりきれない気持ちが交錯した。
特に寺岡恒一さんが命を奪われる経緯については、あまりの残虐性に意識がもうろうとして、もう少しでその場に倒れてしまいそうになるところだった。
まるで私のかつての恋人が同じ目に遭っているかのような錯覚を起こし、
夏なのに凍りつくような悪寒がして、その日は余りのショックで夜も眠れなかった。
連合赤軍事件で命を奪われた犠牲者のご遺族のかたも、きっと長いこと眠れぬ夜を
過ごしただけでなく地獄を味わい、修羅場のような日々を送っていたのだろうかと
察するに余りある。
人がこれほどまでに残酷になれるものかと、しかも志を同じくする仲間をこれほど
残酷極まりない手口で命を奪えるものなのかと、事件の信憑性まで疑ってしまった。
しかしこれがまぎれもない事実である。
この想像も絶するような凄惨極まりない恐るべき事実が記載された当時の新聞記事が、製本され、何事もなかったかのように整然と国会図書館の新聞閲覧室に並べられていることに時代の移ろいを感じた。


事件当事者が書いた著書や、事件に関する本も何冊か読んだ。
事件が起きた経緯についてよりも、あの時代に一緒に活動していた人物像に触れたいと思った。とりわけ寺岡恒一さんが実際にはどんな人だったのか知りたいと思った。
寺岡恒一は組織の軍事部門の責任者で「爆弾の専門家」と言われ、凶悪な犯罪にも
手を染めていった人だったが、「寺岡君の真面目な気骨に感心した」とか
「寺岡恒一さんの白い顔」などの記述を見るたびに、私が以前交際していた人と
寺岡恒一さんの2つの顔が重なり合うように感じた。
そして実際の寺岡恒一さんがどんな人だったのか知りたいという一種の強迫観念に
駆られてご遺族のかたに手紙を出そうと思った。
恒一さんの素顔はどんな人だったのか、今どこに眠っているのか、おたずねしたかった。
手紙の宛先を確認するために、8月12日の朝に寺岡さんに電話をかけてみた。
恒一さんのお母様が電話に出られた。
あの時交わした一言一句を今でも鮮明に覚えている。
そして感極まって思わず泣いてしまったことも。
それから10日ほど経った8月23日に寺岡さんに手紙を書いて出した。
これが連合赤軍事件と、寺岡恒一さんとそのご遺族のかたとの接点を持つことになった発端であった。
何と奇遇な廻り合わせなのかと、当時を思い起こすたびに感慨深い思いが、
長く心に響きわたるような余韻を感じている。