読書の秋に想う

今は読書週間である。

本を読んでいると、言葉では言い表せない心のどこかで
「求める何か」を感じることがある。
この「求める何か」を感じる本は、いわゆる名作といわれている小説であったり、娯楽の分野である推理小説であったり、エッセイであったりと、本のジャンルは様々だ。
読者の心の中から沸き起こる何か求めたいものは、
作者の熱意や真剣な本心が読者にも伝わり感じ取れた時であり、同時に潔さも感じる。
その「何か」が現れ感じることができるのが読書の楽しみでもある。
それに反して本心を隠し通して偽りの口上を並べたような著書は、
無味無感で空虚なものだ。
連合赤軍事件の主犯者、永田洋子の著書を読むまでは、そんな本が存在するはずはないと思っていた。


連合赤軍事件に関する情報は、まずマスコミから得ようと思って国会図書館の各社の新聞記事を読んだ。
それから事件当時者であり最高責任者であった永田洋子の著書『十六の墓標』を読むことにした。
その本にはきっと、事件で行動を共にした仲間のことが描かれているに違いないし、
特に寺岡恒一さんが組織の中ではどんな人だったのか、どんないきさつで死に至らしめたのか、当事者の観点からうかがい知ることができないものかと思った。
その本の初めの頃は、永田洋子が活動家になって仲間との出会いが生き生きと描かれていた。
「金子さんたちが私にワンピースを買ってきてくれてすごくうれしかった」とか「行動を共にする仲間が増えて感動した」など、永田洋子はストレートに感情をあらわにする人だったのかと思った。
しかし事件の核心部分になると、最初の率直な表現から一変して、主犯者でありながら他人事のような無関心で味気なく、血が通っていない文章になっていった。
印旛沼事件に関しては「大槻さんと寺岡君が決めたこと」として「警察に密告されたら困るから仕方なく口封じをする形になってしまった」ような成り行きに流されたと語っている。
山岳ベースで仲間が凄惨なリンチの末に命を落とすことに至っては、永田洋子はただの成り行き任せの傍観者で、借りてきた猫のような表現ばかり書き連ねてあった。
特に進藤氏がリンチで亡くなったことに関しては「彼は死ぬために来たようなものだ」と書いている。
これが連合赤軍の最高指導者の言葉かと思わず文面を疑った。
他の仲間の最期の場面も「『総括』は森さんが先に言い出したことで、革命を遂行させるためには仕方がなかった」「私が手を下したわけではないから死刑は不当だ。リンチを止めなかった仲間も同罪だ」と、獄中自殺した森恒夫や命を奪った仲間に罪をなすりつけて、保身と責任転嫁に徹した文面が目立った。
「全ては僕と永田さんの責任です」と自白した森恒夫とは雲泥の差である。
永田洋子は事件について「なぜあんなことになってしまったのか」と何度も書いている。
そして「明るかった金子さんや大槻さん…寺岡君の白い顔…あの頃は皆でかりんとうを回して食べながら何でも意見を述べ合っていたのに、どうしてこんなことになってしまったのか」と後悔の念を吐露している。
「森さんたちに翻弄されて、こんなことになった私も被害者だ」…これが彼女の本心なのか?
その本の文面からは、著者の血が通った真意が読み取れず、ただ単に自分を正当化するための目論見が見え隠れしているだけの空々しさしか感じられなかった。
ただし唯一永田洋子の素顔が感じられたのは、まだ一連のリンチ事件を起こす前の彼女が仲間たちと過ごした日々を素直な目で描いており、仲間がどんな人だったのか知ることができて興味深く感じたことであった。
深まる秋、この季節に永田洋子ら活動家は山岳ベースに向かって突っ走っていったのかと思いを馳せた。
「なぜあんなことになってしまったのか」…それは誰もが永田洋子に対して問いただしたかったことであり、決して「仕方がなかった」で終わらせてはならない事実であろう。
読後にこれほど何とも後味の悪さだけが残った本を読んだのは初めてのことだった。