墓参に想う 歳月の重み

この日は、昨日までの台風とは打って変わって、
正に台風一過の青空に恵まれた。
寺岡恒一さんのお墓参りをするのは3月下旬以来のことだ。
この秋らしい青空に見守られて気持ちよく墓参ができそうだと期待した。
全体像を残す会の皆様よりもやや早目に着いたので、
墓地に供えられて古くなったお花や雑草を取り除いて到着を待った。
それから雪野建作氏をはじめとする全体像を残す会の方々がいらして墓参をした。
それぞれが故人を偲ぶ思いを抱いているようだった。
墓参の後、寺岡さんのご自宅を訪れた。
雪野氏や事件当事者の方々と、焼香をさせていただいた。
恒一さんのお母様は、「あの事件は仲間同士が突っ走って起こしたことで、事件のことを忘れたことはないが、
だれを恨むということはない」とおっしゃっていた。
寺岡さんのお宅の近くにあるレストランで、全体像を残す会の皆様と会食をした。
メンバーにはわりと若い方が多かったのが意外だった。

食事の後、同じ市内にある金子みちよさんのお墓参りもご一緒させていただいた。
金子みちよさんもさぞかし無念のうちに命を絶たれて、その心情を察するに余りある。

その後、再び寺岡さんのお宅に戻り、庭の柿の木に沢山実った柿を雪野氏や他の数名で収穫した。
昔ながらの富有柿だった。
恒一さんも生前、この柿を食べたのだろうか、と、
思いを巡らせた。
それから今日、初めて2階にある恒一さんの部屋にもおじゃました。
2階からも明るい陽射しを浴びて、たわわに実った柿の木が見えた。
壁には大きな日本地図が貼ってあり、棚には地球儀もあった。
きっとあの当時のままの状態なのだろうと思われた。
まるで時間が止まってしまったように感じた。
恒一さんはこの部屋でどのような日々を過ごしてきたのだろうかと、思いを馳せた。
部屋の入り口の壁には魚拓が掛かっていた。
恒一さんが20歳の時に釣ったものだった。
背びれやうろこが正確に写し出されて、まるで生きた魚のようだった。
そして何よりも魚拓に書かれた字や署名が、
書道の基本に則った筆致で端正に書かれていて、
恒一さんの人柄が偲ばれる思いがした。
これこそ活動家、矢吹恒一ではなく寺岡恒一として生きていた証である。
残念ながら遺作となってしまった魚拓を見ていると、恒一さんが実際にこの部屋で魚拓を作っている姿を思い浮かべて、恒一さんにお会いできたような気がした。
私が連合赤軍事件を知り、寺岡恒一という活動家を知り、そのお母様と約1年ほど手紙のやりとりをしてから20年になる。
20年前はまだ恒一さんのお母様と実際にお会いするまでには至らなかった。
この20年の歳月を経た今だからこそ、こうしてお会いできたのだと思う。
そして全体像を残す会の皆様とご一緒できたから、恒一さんの遺品となった魚拓を見ることができたのだと、感慨深い思いで今日のこの日を振り返っている。
ようやく何かに辿り着けたような歳月の重みを感じる日であったと思っている。
今日のこの日は今までにないような非常に思い出深い日として私の記憶に残るであろう。