節目の年

今日、寺岡恒一さんのお母様にお会いした。
今までのように、午前に恒一さんの墓参をしてから
お宅を訪問した。
霊園の桜並木のつぼみが大きくなりかけていた。
やはり季節は巡ってくるのだと感じた。
この2月、寺岡さんのところに、今年は連合赤軍事件から40年の節目にあたり追悼集会が開かれるとの電話があったそうだ。
連絡してきたのは雪野建作氏であった。
恒一さんは雪野氏の活動に感銘を受けて学生運動家になったそうだ。
電話があった後日、雪野氏から事件に関する本が届けられたそうだ。
その中には恒一さんのお墓参りの様子も書かれていたという。
寺岡さんは連合赤軍事件の関係者とは皆音信不通で、もう事件のことなど忘れ去られたものだと思っていたところ、雪野氏が事件のことを本にまとめて今でも事件の意味を考えていることや、追悼集会を開く予定であることを知って、事件を忘れないでいてくれて感心したご様子だった。
雪野氏は1971年8月に逮捕されたため山岳ベースには行かなかった。
東京拘置所に収監されていた雪野氏は、どんな思いで大量リンチ殺人事件やあさま山荘人質事件について知ることとなったのだろうか。
先の追悼集会には事件当事者の方々も参加なされたのだろうか。
寺岡恒一さんや亡くなられた人たちは罪を償うことすら叶わぬことだ。
命あっての物種である。
寺岡さんのお母様は、事件のことを「あの状況下で誰も止める人がいなかったから悪い結果になった。もし誰か止める人がいればよかったのに…」とおっしゃった。
私はその時「恒一さんが『総括』を止めようとした人だった。それで命を奪われてしまった」と、もう少しでこの言葉が口をついて出そうになったが、とうとう言えなかった。
もし言えば恒一さんのお母様はあの当時の悲惨な情況を思い出してしまうであろうから。
「自分の意見を言いそうな人たちが殺されていた。寺岡恒一君だったら自分の意見を絶対言いますからね」…山岳ベースに来られなかった元メンバーの証言が頭をよぎった。


「思い余り総括の意味を問いしとぞ惨殺される前夜に彼は」 坂口弘『歌稿』