あさま山荘 父と子 

 「T君の死を知らぬ父上の呼掛けを
 籠城の吾ら俯(うつむ)きて聞く」
 坂口弘『歌稿』



この「T君」とは寺岡恒一のことである。
1972年2月19日に、軽井沢にある「あさま山荘」に、連合赤軍と思われる過激派数人が、人質をとって立てこもる事件が起きた。
山岳アジト跡から寺岡恒一の指紋が検出されたことから、警察は寺岡も坂口らと共に
あさま山荘に立てこもっているものと思い、両親に説得を要請した。
寺岡さんのご両親は、他の親御さんと共にあさま山荘へ人質解放の説得に行った。
「もし息子が(あさま)山荘に閉じこもっていることがはっきりしら、私も出かけて
”潔く出てこい”と呼びかける。こんなことになるまでに息子と話し合いたかった。
あんなやさしい子がどうして…。」と、警察からの説得要請を受けた時に恒一さんの
お父様の一郎さんはこう話した。そしてあさま山荘にライフル銃を行使して立てこもっている「犯人」の中に息子もいると思い、武器を捨てて出てくるように必死で呼掛けを行った。
「ことばは立派な武器です。
とにかく勇気を持って出て来て話し合ってくれ。」

「一昨年のおばあちゃんの葬式に
突然出て来て泣いてくれた。ありがたかった。
君のカラー写真も仏壇のある部屋に置いて
毎日一緒に見ている」…


寺岡一郎さんの呼掛けの言葉には、子を思い案じて、何とか誤りを正そうとする親心が、痛切ににじみ出ていて、強烈に心に響くものを感じて止まない。
しかし、寺岡一郎さんの呼掛けが息子に届くはずもなかった。
寺岡恒一さんは約1ヶ月前に、想像も絶するような残酷極まりない手口で
命を絶たれていた。しかも籠城の5人も恒一さんの死に関与していた。
そんなこととは知らずに一郎さんは「君の評価は、これからの君の行動にかかっている」と、誤りを認めて出てくる勇気を説き、最後まで必死で呼掛けを続けた。
坂口弘は後に著書の中で、「恒一君の父親の呼掛けの言葉が我々5人の胸に重くのしかかり、胸中つらく苦しかった」と述べている。
3月13日に、寺岡恒一の無残な遺体が発見された時、一郎さんは、「息子があさま山荘にいなくてよかった」と語ったそうだ。もし寺岡恒一が生きていたら重罪犯になったであろう。しかし生きていれば罪を償うこともできたかもしれない。
この結末はあまりにも悲惨すぎる。
寺岡一郎さんの言葉の裏には息子が誤った人生を歩んで行くのを食い止めることができなかったもどかしさと、その結果、息子の人生を取り戻せなかった悔しさと、やるせなさが切実に伝わってくるように感じられて、やりきれない気持ちでいっぱいになった。
寺岡恒一さんと一郎さんへの哀惜の念に堪えない思いが込み上げてくる。
お二人のご冥福を心からお祈りしたい。