あさま山荘への道

1972年のこの日、
あさま山荘猟銃人質事件が起きた。
奇しくも1993年の同じ日に最高裁判決で、
連合赤軍の最高責任者であった永田洋子坂口弘に死刑判決が確定した。
永田洋子は「判決文の短さに驚いた。
何も検討していないし肩すかしの感がする。最高裁に裏切られた」
「わたしは持久戦には強いので頑張ります」と言い残した。
しかし謝罪の言葉は一言も無かった。
僧侶であり作家の瀬戸内寂聴は、「事件の重大さと亡くなった人たちの生命の意味を
考えられない人を死刑にしないで」と、永田洋子の死刑を取り消すように願った。
「彼女に生きて事件の意味を考えさせてほしい」と訴えた。
坂口弘最高裁判決の後「山岳ベースで総括によって死に至らしめた12人の同士、
組織防衛の名で命を奪った2人、そしてご遺族の方々には、事件の真相を明らかにして、せめてものおわびのしるしにかえさせていただきます」と反省と謝罪の気持ちを述べた。
同じ日に死刑判決を受けた連合赤軍事件の当事者2人の何と対照的なことかと、

あの当時感じたことが今も鮮明に思い出される。
永田洋子は病に屈して死去した。その際、若松孝二氏は、
「事件で学生運動もすべてだめになった。そういうことを総括せず、森元被告に責任転嫁したまま死んでいった」とコメントした。
これこそ若松監督が連合赤軍事件の映画を作りたかった動機ではないかと思う。
永田洋子は、事件の最高責任者でありながら、真剣に事件と向き合おうとせず、虚偽の逃げ口上で保身と責任転嫁を続けていたことを、若松氏は残念であり憤りさえ感じていたのだと思う。
このままでは命がけで真剣に学生運動に邁進していた「あの時代」の若者たちが浮かばれないという危機感を持った若松氏は、巨額の資財を投じて映画『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』を製作して事件の落とし前をつける決心をしたのだと思う。
この映画に潔さを感じるのは、事実をありのままに伝えたかった若松孝二氏の気迫と信念の表れではないかと思う。

この日、死刑が確定した坂口弘は、一句残している。

「誤りを糺(ただ)し来たれど足らざると思いて受けん死刑宣告を」坂口弘『歌稿』