湖畔の宿で

1994年2月の榛名湖は、スケート客やワカサギ釣りの客でにぎわっていた。
前回訪れた紅葉の景色とは打って変わって雪に閉ざされて厳しい表情の榛名山が前方に見えた。
あの山の裏側に、残酷極まりない凄惨な犯行現場があったのかと、身震いする思いがした。
それなのに榛名湖は多くの観光客でにぎわっている。そのギャップが重く感じた。
連合赤軍事件から22年後の2月に、榛名湖管理事務所の丸岡和平氏と再会した後、
今回は榛名湖畔に泊まることにした。
その旅館は、寺岡さんご夫妻が毎年恒一さんの慰霊に榛名湖を訪れる際に利用していた常宿だった。寺岡さんは遠山さんの親御さんと、ここを訪れていらしたという。
宿の女将さんが部屋にいらしたので連合赤軍事件のこと、そして寺岡さんのことについて話題を切り出した。女将さんは寺岡さんのことをよく覚えていらした。
寺岡さんのご両親は恒一さんの終焉の場所を知ることができて感無量だと話したという。毎年恒一さんの足跡を辿ることで供養をして冥福を祈りたいと思ったのだそうだ。
しかしさぞかし無念であっただろうかと、その胸中を察するに余りある。
私は女将さんに、前年の10月にも榛名湖の丸岡さんをお訪ねしたこと、その後、倉渕村の蓮華院に行って、連合赤軍事件の犠牲者を追悼した経緯をお話しした。
連合赤軍事件の時には、事件の関係者をはじめ警察やマスコミの取材記者が大勢殺到して大変な騒ぎになったそうだ。
犠牲者の遺族の中には榛名山を見るのも忌まわしくていやだと話していた人もいらしたという。
寺岡さんは、高齢で腰痛のため、ここ数年前から慰霊の旅ができなくなってしまって残念だとおっしゃっていたことを覚えている。
あの当時お世話になったこの旅館の女将さんは引退したのか、もう旅館にいらっしゃらないようだ。果たして今でもご健在なのか分からない。
寺岡さんのご両親は、この旅館で何を思い感じたのだろうか、そんな思いを巡らせていた当時のことを感慨深く、いとおしい記憶として思い起こしている。