私だったかもしれない

「私だったかもしれない永田洋子」という句がある。
もし私が全共闘時代に大学生だったら、永田洋子重信房子は私だったかもしれないと、思うこともある。
永田洋子重信房子学生運動を始めたきっかけは、女性の地位向上のためだという。
その動機は決して間違いではなく、むしろ立派な考えだと思った。
しかし永田洋子は、方向性を見失って仲間殺しを指示した。
連合赤軍による山岳ベースでのリンチ殺人の発端は、永田が他のメンバーに言いがかりをつけ始めたのが「総括」の原因だと、生き残った元メンバーは語っている。
学生時代の永田洋子はおとなしくて素直な学生だったという。
永田はある女子中学生の家庭教師をしていたことがあった。
親切で、分かるまで丁寧に教えてくれたそうだ。
その女子中学生は、永田洋子が大量リンチ殺人事件の主犯者であることを知ると、
ショックを受けて「あの頃の優しかった洋子先生に戻ってほしい」と話していたそうだ。
重信房子が活動家になったのは、大学で学生運動に参加して、女性の社会進出を願って活動を広めたかったが日本では無理だと分かり、海外を拠点に活動しようと思った。
しかし国際テロ活動を貫き通して多くの人を不幸な目に合わせた。
学生運動が盛んだった世代に学生時代を過ごしていたら、私も活動家になっていたかも
しれない。永田洋子重信房子らは、ある意味での時代の申し子のように思える。