倉渕村 十二塚

今から17年前の10月24日に、連合赤軍の山岳ベースアジトがあった榛名山を訪れた。
山の管理人の丸岡和平氏にお会いして当時のお話を聞くことができた。
私はその足で、連合赤軍がリンチで命を奪った仲間の遺体を埋めた場所に行って、彼らの冥福を祈ろうと思い、榛名山から高崎へ下った。
そして犠牲者の合同葬儀を執り行った倉渕村の蓮華院を目指した。
高崎から倉渕村へバスで向かったが、秋の日差しも手伝ってか、日中でも寂しい風景が続いた。
途中で5〜6人の外国人が乗り込んできた。
私のそばに座ったのはイギリス人と思われた。尋ねてみると彼らは英語圏の外国人で、全員が中学の英語教師としてクラブチに来たと話していた。
こんな小さな村の中学校にも外国から英語の先生が来るとは、日本も随分国際化が進んだものだと感心した。
倉渕村の蓮華院をお訪ねしたが、あいにくご住職の春原賢弘(すのはら けんこう)師は
不在だった。お寺の方の話によると、あの当時のうっそうとした杉林も伐採が進み、
地形がすっかり変わってしまったそうだ。
その当時は日没が早かった。
急激に迫る夕闇が背後からひたひたと迫ってくるようで不気味な感じがした。

バスは高崎に向かって、くねくねした林道を走り抜けようとしていたが、
あっという間に周囲は漆黒の闇夜になった。
夜道のヘッドライトに照らし出された杉林は、あの新聞記事で見た現場の写真と同じだった。彼らは厳冬の深夜に、どんな思いで犯行を隠すためにここまで来たのだろうか?
リンチで命を奪われた連合赤軍の犠牲者は12名だったが、彼らがその遺体を隠すために埋めた倉渕村の杉林は奇しくも「十二塚」という地名であった。
連合赤軍の犯行現場が目に浮かび、犠牲者のつらさと苦しさが伝わってくるようであった。重苦しい雰囲気に包まれていく中で、私はただ犠牲者の冥福を祈るだけであった。


 「殺(あや)めたる同志らの数に符合する十二塚なる埋葬地の奇異」
 坂口弘『歌稿』