学生運動家 矢吹恒一

連合赤軍の幹部で、山岳ベースアジトで12名の仲間をリンチで殺害し、あさま山荘事件で3名の命を奪った罪で死刑が確定している坂口弘の手紙がある。


「あの頃T君の下宿でよく泊りがけをしたものだ。
三畳の狭い部屋で、貴君を含む五、六人の若者が
額を突き合わせて組合大会での発言内容や発言順位などについてよく作戦を練った。」
「短い期間だったが、仲間も次から次へと増えて活動にはりがあった。
みんな口下手だったが、純真で気持ちのいい諸君ばかりだった。
俺は、はつらつとしたあの諸君のことを生涯忘れはしない。」
坂口弘『友への手紙 S君へ』(1987年)


この冒頭の「T君」とは寺岡恒一のことだ。
学生活動家としての寺岡恒一の姿を垣間見ることができる。

あの当時の学生運動家は、世の中を少しでも良くしようという活動で、目指していたことは決して間違っていなかった。
そんな純朴な思いを抱き、一心不乱に活動してきた彼らの行動が目に浮かぶようである。しかし方向性を見誤って、山岳ベースでのリンチ事件に発展した。


「多数の犠牲者のことを思うと、こうして想い出を綴ることさえも負い目を感ぜざるをえない」
「歳もまだ20代前半の若者が大半を占めていた。彼等は真情を吐露することはおろか、
われわれの理不尽な仕打ちに怒りをぶつけることさえかなわない。
この不条理ゆえに、俺は事件いらい、折にふれて罪の意識に苛まれてきた」
坂口弘『友への手紙 S君へ』(1987年)


幹部だった坂口弘も、リンチを止めようと思えば止められたはずだ。
しかし実際、連合赤軍の組織は森恒夫永田洋子が掌握していた。
特に永田は森をもしのぐほどの圧倒的な権限があったという。
同じ幹部として「総括」を止めようと、永田らの理不尽な行為に怒りと不満をぶつけた
寺岡恒一が惨殺された。

坂口弘の手紙からは、矢吹恒一と名乗って軍事部門のリーダーとして爆弾製造に携わり、爆弾の専門家と言われていた寺岡恒一の行動の様子が浮き彫りにされるようだ。
しかし活動家として生きていた間でも、時には小鳥を愛し花を愛した心優しい寺岡恒一の心情も見え隠れすることもあったのではなかろうか。