過激な歌劇

板橋区にいる祖母に会った。
珍しく連合赤軍事件について話し始めた。
「あのころは新聞を開くのがつらかった」と語った。
祖母は連合赤軍事件に詳しかった。
榛名湖畔に板橋区の保養所があったためか山岳ベース事件のことを詳しく覚えていた。
住まいに隣接するアパートの一室を過激派のアジトに使われていたことがあったらしい。
部屋を借りていたのは勤労学生だった。
ある日警察が来て、このアパートに過激派が潜伏しているから注意するようにとのことだったが、祖母は「過激」と「歌劇」を取り違えて、借りている学生が音楽大学で歌劇の勉強をしていると思ったそうだ。
間もなく警察がアパートに踏み込んできたが、その学生は逃げた後だった。
借主の名前も学校名も連絡先も全部でたらめだったが、新潟に両親と妹がいると話していたことは事実だった。
兄と称して時々訪ねてきた郵便配達員が組織の幹部だったらしい。
連合赤軍のメンバーもそれぞれ偽名を使って活動していた。
寺岡恒一は、矢吹恒一と名乗り、幹部として爆弾の指導をしていたそうだ。
あの若さで名を変え、アジトを転々としながら活動を続けていたとは、
相当の覚悟と信念がなければできないことだ。
「過激」を「歌劇」と間違えるような、のんきな祖母だが、人を見る目は確かだった。
そして、若松孝二監督と同じことを言った。
「あの人たちも最初は社会を良くしようと思っていたけど、やり方が悪かった。
考えは間違っていなかったのに、かわいそうだったね。」